モノクロ写真家の日記:242
【諦める⇒明らめる】
本日、来年の5月の個展申し込みを完了しました。
来年からは、「工芸士」と「近くの何気ない風景」の2テーマで個展を進めていく所存です。
きっかけは、息子ちゃん(22歳)の忌憚のない発言から始まりました。1Xに50作以上掲載されているにも関わらず、作品が売れないことを相談すると「お母さんは親しいおじさんだから壁に飾りたいと思うけど、一般の人は知らないおじさんを壁に飾りたいとは思わない。」というカウンターパンチのような答えが返ってきました。
また、同じことをある工芸士の方に相談すると「風景写真なら飾りたいが、工芸士のおじさんを飾りたいとは思わない。一般受けもしない。風景写真で客層を広げてみてはどうでしょうか。」という同じような意見でした。
一人の工芸士と出会ってから、工芸士縛りで何が何でも広げていくという私の「呪縛」は開放されました。しかし、今でも撮ってみたいと思う工芸士の方々に声は掛けていますがなかなかご縁が繋がりません。「工人の軌跡」は手詰まりの状態でしたので、二人のアドバイスは前向きな解決策として私の心に響きました。
そこで、長谷川佳江の今後をお知らせします。
①個展は年に一回にする。
二回にすると、工芸士の方々の都合に合わせながらゆったりと十分な作品展示ができない。(今までは、障害物競争のような慌ただしさでした。)
②妥協しない
今までの個展は、140点という数の多さでごまかしていた感があります。点数を減らして納得のいくものだけを展示します。
③工芸士さんのポートレートと風景写真の同時進行で作品展を行う。
工芸士さんの作品は一回出向けば、8-9枚はそれなりの作品が撮影できます。要領も得てきているのでしょう。しかし、風景写真は「たまたま良くて2枚、平均1枚、0枚になることもある。」という厳しい状況下で行います。今から来年の5月に向けて風景写真を撮影しています。
【諦める⇒明らめる】
「諦める」は、本来は仏教が語源で「 諦観たいかん 」と書きます。諦観とは「あきらかにみる」ということです。
諦観(たいかん)
<諦>はあきらか、つまびらかであること、あきらかにすること。
<観>は注意して見ること。
それゆえ<諦観>は、あきらかに視ること。
(自己分析)
私は、東京芸大や京都芸大出身で、特に優秀で有名な教授に推薦を受けるような身分ではありません。
私は、無名の写真家です。冨永愛さんのように、笑顔で工芸士さんにもてなされることはありません。(宣伝にならないからです。)
私は無所属です。所属したくはありません。団体の中で人に気を使い、時間を使いたくありません。そんな労力があるなら一人で撮影したいです。
ただ、私には少しですが芸術的才能はあります。(写真の先生と絵の先生のどちらもが、才能がある、と仰って下さいました。美術だけは優秀な成績でした。)
これからは、好きな人を好きな風景を撮りたいように撮ります。そこに社会的役割なんておこがましい事を考えません。鉄工所時代は新聞・ラジオ・テレビに出演し、勘違いしていました。振り返ると「バカ」でした。結局踊らされていただけなのですから。
「好きだから撮る」今後はそうやって撮影していきます。
自分の立ち位置をあきらかにして、前向きに進むことにしました。野望は捨てますが、写真表現の向上に関しては決して諦めません。
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